2021年10月4日月曜日

演繹的な人生 解釈を楽しむ

You Tuber という人々が世の中のインフルエンサーとなっている。テレビコンテンツに飽きちゃった教養を求める人々がネット動画に興じていると言っていいかもしれない。

あるいはテレビは汎用性みたいなものを大事にしすぎていて、一般的というところを追い求めちゃっているのかもしれない。大衆という軸に囚われすぎているのかも。

もちろん、教養を求めない人もネット動画にハマっている。その場合は、かなりエンタメに軸をおいた動画をダラダラと見ている感じかな?

そもそも昭和の人としては、こういう使える知識があるからこんな本を読むといいという動画があったりして、うーん、昔と逆の提案なんだと思う。本をサマリしたサイトもあるし、どうも、時間の流れが違うんだなと思う。書店で本をゆっくり選ぶんじゃなくて、インフルエンサーやサマリサイトから読みたい本をお手軽にチョイスする時代。ネット通販が行き渡っているので、現物を手にとって吟味できないところにその理由があるのかもしれない。

そもそも昭和の人は、活字、すなわち記号からイメージを想起することに慣れているため、動画から活字に戻るというのは流れが逆なのだ。マックスからミニマムに帰る、みたいな感じがある。 

動画になること自体、つまり映画になること自体が、その活字の集まり、すなわち書籍がとてもヒットして映画になっちゃうみたいな展開がずっと続いていたので、どうも最初にわかりやすいメディアで紹介されちゃうと抵抗があるんだな。

ところで昭和の人々は、編み物、ピアノ、読書、新聞なんてものと同時に成長してきた人なので、全部文字や記号から物事を想起して生きてきた。だから、動画で先に答えを言われちゃったものは、どうしても抵抗がある。自分の中の自分のイメージが大事だから。つまりいつも自分なりの解釈の中に生きていて、自分なりの感性を大事に生きて行きたのだ。

もちろん昭和の人にもテレビはあったけれど、そこでは世界に広まる前のアニメコンテンツが盛んに放送され、アニメはもちろん漫画だったわけで、漫画とは擬人化されたキャラクターが出てきて非日常を演じてくれる、いわば日本的な記号的な何かであり、そこから多元的な解釈ができる自分なりの解釈ができるコンテンツだった。

昭和の人というのは、日常的に解釈することを求められながら生きてきた。つまりは演繹的な人生だ。You Tubeをみて育つ今の10代は自分の人生をどう振り返るのだろう。

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