2021年10月7日木曜日

百均の毛糸

 百均でも毛糸を売っている。アクリル毛糸だけかと思ったが、結構色々な配色で、普通のケイトメーカーにはない配色のものもあり、面白いなと思った。まずはアクリルタワシを編んでみた。レシピはネットに転がっているワッフル編み。

確かにワッフル風に編める。しかし、百均のかぎ針じゃないと編めないのだ。普通の手芸用の鉤針を使うと、するすると糸が滑ってしまって、全体に生地が伸びてしまい、ワッフルの詰まった感じがでない。

他にも靴下にチャレンジしたがかなり編み地が薄くなり、すぐに切れちゃうだろうなという感じ。

大物を編もうにも、毛糸の在庫がないので取り寄せて欲しいと言ってもない。レシピにあるような大物は編めない。ネットエコバッグを編んでしまうのにも在庫が足りない。

また、化学繊維が入るものになると編み地が綺麗にならない。小さな小物入れを編もうかと思ったが、網目が綺麗にでないとわかってどうしようか悩んでいるものも一つある。

また、ウールの毛糸も百均で売っているが、どうもかぎ針との相性がやはり悪い。編み心地が悪くて、もう一回編みたいと思わない。

やはり普通の毛糸に慣れちゃった人は、百均の毛糸は辛いかもしれない。なんとかして百均の毛糸で何かを編もうと、徐々に革命を進行させているが、どうなることやら。

編み物道具

 編み物の道具は編み針に始まり、縄編み針や、目数リング、段数リング、休み目用の大型の安全ピンみたいなものや、棒編み針の先にほつれどめをするキャップ、ゲージを測る専用のスケール、ピン留めするための毛糸専用のまち針、など書き出すと延々と続く。

じゃあ一つ買うとそれでOKかというと、そういうわけでもなく、作品ごとにそれぞれ必要な道具というのが違ってくる。

例えば、一段が長い場合、4本か5本の編棒がひと組になった物を使って、横に繋ぎ合わせて、長い編み地を作り、その編棒の本数によってキャップの数も多くなる。

また、網図が全て書かれている場合はそのまま編んでいけば良いが、省略されている場合は段数を数えるリングが必要となる。

目数リングもかぎ針の場合はリングに隙間のあるタイプで段を数えなければならないし、と枚挙にいとまがないのだ。そんなこんなで道具は数え切れないほど持っている。

みなさんそうだと思うけれども、棒針の場合はやはり竹で作られたものがいい。プラスチックの編み針で編む場合に、毛糸に化学繊維が少しでも含まれるとどんどん編み地が伸びてしまう。摩擦で棒針に糸が絡んだ方が、ゲージ通りに編めるというものだ。

棒針に毛糸がきゅっと絡みながらも、スルッと糸割れせずに針先を滑っていく感覚というのが編んでいて病みつきになるポイントだ。またあの感覚が欲しい、そう思ってしまう。

縄編み針はプラスチック製がいい。スルッと滑りながらも、互い違いにした糸をうまく編んでいくのに滑らかだ。

縄編針の場合、フック型と凸型の2パターンあるが、私の場合、フック型は、1目交差の際に使用し、凸型は何目かを交差するときに使用する。フック型を使っていると、1目だけ落としておくので、まるで組紐を編んでいる感覚になる。

ちなみに、ネットの動画を見ていると全く道具を使わず縄編みをしてしまう人というのもいるが、私はその域に達していないし、目指してもいない。あくまでも素人の横好きなのだ。

道具自体は私が子供の頃とそれほど変わらないが、2020年代の今は、編み針を収納する布製のケースや、編み出しをサポートするナイロン製の紐など専用のものがたくさん売られていて面白い。

70年代、私が子供の頃、すでに機械あみ機というのがあって、それを教える人というのを職業にしている人たちを見かけたし、編み物雑誌にもそういう機械が紹介されているのだけれど、なぜだか手編みというのは細く長く続いているようだ。書店でも新しく編み物雑誌が発刊されていて、むしろ今は息を吹き返しているようだ。

編み物の文化は機械革命が起きても、結局手で作ることがいいみたいなことになる。人の手の温もりが籠ったような毛糸というのが素敵なのだろうな。

2021年10月5日火曜日

ヨガのプロップス

 2010年代に瞑想が流行って、ヨガが流行った。しかし、10年後のコロナ禍でジムもヨガスタジオも行きにくいところとなった。オンラインヨガやヨガのネット動画が見直されたのだろう。

実際、ヨガスタジオでは怪我に気をつけてくれるが、ハードなヨガをすると怪我をするのは本当。エクササイズしすぎると、足の付け根のリンパ管がパンパンになるし、下手なバックベンドを自分でしてしまうと腰を痛める。

ヨガのコツみたいなものは、まずは痩せてから本格的なポーズをすること。初めはゆったりな動きから入ること。それが何より。スタジオで教わるのが大事だけれど、今はそれも難しいので初心者は怪我をしないためにオンラインヨガでポーズを見てもらったり、本を読むなりして無理せず楽しみたい。

これからヨガをする人、もしくは人生経験が長い人はヨガを始めるにはプロップスが必要になる。プロップスとは支えるもの。ポーズを取るときに身体を支えてくれるもののことだ。

代表的なところはヨガベルトやヨガブロックというところか。あとはボルスターがあるといいかもしれない。

ヨガベルトは、家にあるベルトでも構わないけれど、ヨガ用のを一本購入すると、座った姿勢で前屈の時に体が硬い人は助かるだろう。だんだん身体を柔らかくするのにヨガベルトはあると助かる。

また、ヨガブロックは立った姿勢での前屈や、あぐらをかいても膝が床につかない人などにおすすめ。高齢者にはいいかもしれない。これはいろんな素材のものがあって、私はコルクでできたものが一番いいと思っている。

重みが適度にあって安定性がいい。ツルツル滑らないので、しっかり身体をサポートしてくれる。

2010年からの10年間は私自身のヨガ革命で、朝起きて四十五分くらいパワーヨガを毎日2年間続けたこともあり、アシュタンガヨガを何年も続けたことがある。ヨガが人生みたいな時代だった。その革命の結果、今も糖尿病にならずに済んでいる。もちろん通勤で一日1万3千歩、毎日歩いてプラスヨガだったのだけれども。

また、ボルスターは買うと高い。座布団の余りがある人は、座布団を二つ折りにして、かつだめになったシーツなどを一緒に入れて、布でクッションを作ればそれでOK。また、ホームセンターなどでも安く売っている。カバーだけ売っている誰でもヨガというサイトもあり、私はそこで2つカバーを購入した。

さらに、瞑想用のクッションというのが売っているけれど、それは上記のボルスターか、座布団を二つ折り、もしくは家に毛布や膝掛けの余りがあれば、それを畳んでお尻の下に敷けば良い。

何かの行為ごとにツールを買うのではなく、応用することで少しミニマリストっぽくものを持てるだろう。

10年にわたるヨガ革命ののちの、知恵はこんなものだった。

2021年10月4日月曜日

演繹的な人生 解釈を楽しむ

You Tuber という人々が世の中のインフルエンサーとなっている。テレビコンテンツに飽きちゃった教養を求める人々がネット動画に興じていると言っていいかもしれない。

あるいはテレビは汎用性みたいなものを大事にしすぎていて、一般的というところを追い求めちゃっているのかもしれない。大衆という軸に囚われすぎているのかも。

もちろん、教養を求めない人もネット動画にハマっている。その場合は、かなりエンタメに軸をおいた動画をダラダラと見ている感じかな?

そもそも昭和の人としては、こういう使える知識があるからこんな本を読むといいという動画があったりして、うーん、昔と逆の提案なんだと思う。本をサマリしたサイトもあるし、どうも、時間の流れが違うんだなと思う。書店で本をゆっくり選ぶんじゃなくて、インフルエンサーやサマリサイトから読みたい本をお手軽にチョイスする時代。ネット通販が行き渡っているので、現物を手にとって吟味できないところにその理由があるのかもしれない。

そもそも昭和の人は、活字、すなわち記号からイメージを想起することに慣れているため、動画から活字に戻るというのは流れが逆なのだ。マックスからミニマムに帰る、みたいな感じがある。 

動画になること自体、つまり映画になること自体が、その活字の集まり、すなわち書籍がとてもヒットして映画になっちゃうみたいな展開がずっと続いていたので、どうも最初にわかりやすいメディアで紹介されちゃうと抵抗があるんだな。

ところで昭和の人々は、編み物、ピアノ、読書、新聞なんてものと同時に成長してきた人なので、全部文字や記号から物事を想起して生きてきた。だから、動画で先に答えを言われちゃったものは、どうしても抵抗がある。自分の中の自分のイメージが大事だから。つまりいつも自分なりの解釈の中に生きていて、自分なりの感性を大事に生きて行きたのだ。

もちろん昭和の人にもテレビはあったけれど、そこでは世界に広まる前のアニメコンテンツが盛んに放送され、アニメはもちろん漫画だったわけで、漫画とは擬人化されたキャラクターが出てきて非日常を演じてくれる、いわば日本的な記号的な何かであり、そこから多元的な解釈ができる自分なりの解釈ができるコンテンツだった。

昭和の人というのは、日常的に解釈することを求められながら生きてきた。つまりは演繹的な人生だ。You Tubeをみて育つ今の10代は自分の人生をどう振り返るのだろう。

お金を投じるもの 海外旅行とブランドもの編

 行きつけの美容院の店長と同年代で最近会話が弾む。もう10年以上も通っている美容院なので気心がしれている。

「子供の頃はね、お金に関しては厳しかったのよ。躾が。」と話すと、「新聞広告の裏を使って勉強みたいな?昭和の人ですね。」という返しがあった。「そうそう、でも今って新聞広告がそもそも少ないし、広告も両面とも印刷してあるよね。」と言って笑って返した。

私自身はあまり家の住み替えもしないし、家のローンもない、服装は30、40代の頃は凝ったけど、あれこれ買うのではなく定番をうまく組み合わせてファッションを楽しんだ。黒のタートルネックのセーターなんてものを使えなくなるまで着ていた。ユニクロの定番をさりげなく使って、ユニクロ以外のポイントを見せるファッションをうまく楽しんだつもりだ。

じゃぁ、何にお金をかけたのかというと、本、スポーツ、資格試験の3つだろうか。いずれも自己投資。あとは海外旅行およびちょっぴりブランドもの。

海外旅行は勤めていた会社の行く末もあって、「今しか行けない」と思い、会社の先輩も背中を押してくれたことがあって、行くことにした。

旅行代理店と3時間相談したり、旅行ガイドを何冊も熟読したり、インターネットで現地のツアーを予約したり、泊まったホテルに格安ツアーがないか聞いてみたりとあれこれ手を使って安くした。特に格安ツアーでは地元のお小遣い稼ぎのツアコンのかなりローカルな話が聞けて面白かった。ここは長年独学していた英語のリスニングスキルが大いに役に立った。

ブランドものは、そもそもブランドもの肯定派ではなかったものの、某女性作家が新聞にコラムとして書いていたブランドものの良さというのがあまりに響いたこともありながら、いつも内勤だった私が、外回りに出かけた時に、スーツと持っているカバンをジロジロみられて「これはいかん」と思い、1つだけ高いバッグを買った。確かにお値段相応の丈夫さ、もちろんメーカー保証の修理もついていて、壊れて一度直してもらった。

さらに手帳。来客がある時に、手帳を出してメモをとる。この場合やはり足元を見られるので某高級ブランドの手帳と手帳カバーを使った。メルカリに出品したところそれなりの値段がついたが、仕事を頑張ったことの思い出として、さらに将来また使うことがあるだろうと思って売らずに取っておいた。

そんな日々を過ごしていて、「卒業から30周年経ちました」と母校からの召喚がありホテルでの大々的な高校の同窓会というのがあった。その時に「ブランドのバッグ、持っていてよかった。」とつい思ってしまうほど、皆ブランドバッグを持っていた。大体、私の1年分のボーナスでやっと一個買えるようなバッグを持っているような奴もいた。

このコロナ禍で皆と会う機会もいつになるだろうかというところだが、私のお金の使い方というのは実になんというか、ある意味で普通のサラリーマンなのだ。海外旅行とブランドものというのはバブルの象徴のようなものだが、昭和生まれはまだそんなものが欲しいのかもしれない。まだバブルから立ち直らない私の革命は、スポーツグッズへの投資へ続いた。


2021年10月3日日曜日

ゆるゆると立ち上がれ

 今年の夏の疲れと、ワクチンの体力へのパンチでトレーニングができなくなって、もう一回トレーニングをブートアップしようと思って、15分からはじめたサイクリングのトレーニング、なかなか元に戻らない。トレーニングをした翌日は朝起きるのが辛く、足がいつまでも熱っている。

どうしたもんだろうと思い、かかりつけの内科医に相談したところ「もうそういう歳だから」と言われてしまった。「そうですね、ゆるゆると行かないとね」と同調すると先生から「いい言葉が出たぞ」とのこと。

10歳違いくらいのこちらも昭和生まれの内科医が「私も10年くらい前はそうだったんだよ。」と。「元に戻らないのでしょうか?」と聞くと、「いやいや元には戻るけど時間がかかるということだから。」そう説得され、「肩が凝って仕方ないんですよ。トレーニングすれば治るのに。」と伝えたところ、それならと肩こりに効く漢方を処方された。

帰宅して、漢方を一包飲んで数時間で背中から首にかけて凝っていた身体がふっと緩んだ。在宅勤務というのは昭和生まれにこうも鞭打つのかとも思う。体力がなくなってしまって、また通勤をゆるゆると再開することになるのだ。

40代の頃は「このままいける」という野望みたいなものがあったが、そうもいかないということが年代が変わるのを境に実感すること。50代の革命はゆるゆると進むのだった。

2021年10月2日土曜日

天候というショー

 在宅勤務をしていると、ちょっとした身の回りの変化が楽しい。

例えば今日の天気。昨日まで台風が吹き荒れて、台風翌日の良い天気だったかと思えば、夜が深けてから空にパッと青白い光がフラッシュし、ザーッと雨が降る。

グァングァンという巨大な規模の静電気が空でうごめいている音がしながら、徐々に雨が止んでいく。晴天の天気の空にどこからか冷たい空気が入って積乱雲ができたようだ。もう10月なのに夕立のような雨が降っている。蛙がどこかで鳴いている。

そんな時は落雷を避けるために冷静にパソコンの電源を抜きながら、その一つ一つの変化に耳をそばだてている。昼間はちょっと暑かったので、冷たい雨と急に吹き出した冷たい風が心地よく、2階のベランダの窓を開けてちょっと湿った空気を愉しむ。

これが夏なら、ちょっとスイカでも食べて夕涼みするのだけれど、もう10月の初旬というときにイレギュラーな天候がやってくる、今日この頃。天候のことはなかなか誰も予測できないのだけれど、突然やってくる天候というショーを愉しむのもまた一興。

私はお酒が飲めないのだけれど、もしお酒が飲めたなら天候を肴に一杯というところだったろうか。


編み物の道具 失敗の目数リング

 編み物をするときに必要な道具は意外に多い。ヨガのヨガブロックやベルトみたいに、編む作業をガイドしてくれる道具があると、編み物が捗る。

棒針なら、段数リングと目数リング、それから縄編み針、キャップ、糸休め用のホックみたいなものがあると、特にセーターみたいな大物を編むときにとても役立つ。

その中で、いつも使っている目数リングというのがある。これは模様編みをする時に、例えば8目ひと模様の場合、8目で目を区切って棒針に絡めておくものなのだけれど、これに装飾を加えたらどうか、というアイデアをもった。

具体的には、リングにビーズをはめこんで編んでいる最中もキラキラを楽しめたらいいなと思い付いたわけだ。早速手作りしてみた。

一つは、チェコビーズというビーズとリングを組み合わせたもの。もう一つは、百均のビーズとリングを組み合わせたもの。もう一つは、葉っぱの形をかたどったアクセサリーパーツとマルカンというアクセサリ用のパーツ(つまりは丸い輪の金属)を合わせたものを作ってみた。

結論から言おう、失敗だった。目数リングは、棒あみで左から右へ渡すものなのだけれど、どれも重すぎてNG。左から右へ目数リングをうまく渡そうとするたびに落ちて、それに気取られて模様あみを間違えてしまった。結構な段数を編んだのに、最初からやり直しを2回ほどやった。

3回目の正直、というやつで、3回目は編み物用のプラスチックの目数リングを使ったところ、スイスイとすすむ。やはり、手芸メーカーがそれなりに考えて作っているものを侮ったのは素人考えだった。

ビーズの目数リングは、小さな作品を編む時に取ってはあるが、半分は近所の老夫婦のお孫さんの遊び道具として、行き先が決まった。道具というのはやはりシンプルであるべきなのだ。

2021年9月30日木曜日

気づき手帳 すなわち日誌

 転職期間中にやったことは、どの手帳が一番自分に向いているか実験したこと。

なんでも、手帳で計画を書くのって誰でも好きらしい。未来のことを考えるとワクワクするんだろうな。でも手帳の書き方で日々の思考が変わることは事実だ。

転職期間中にやったことは、数学、英語、簿記。それを独学していく中で、どうやってPDCAを回すか?ということを考えた結果、以下を手帳につけてみた。

・問題をこなす中でどうして問題が解けなかったか?

・解けなかった問題に対して、何をすればいいか?

・どの参考書を当たればいいか?あるいは辞書か?

・それをどうやって覚えればいいか?

・その他諸々気づいたこと。

それを1日1ページの手帳に書き出した。対策を書き出し、その通り実行する。自分が自分のコーチになる、というのはこういうことかと思った。

気づきを書くのは日記ではなく、日誌。独学勉強中の方は、お試しあれ。これが私の手帳革命だった。

2021年9月29日水曜日

レジスタンス

 今年は酷暑というわけではなかったが、コロナ禍の中転職したので、夏の初めが新しい職場でのデビュー戦となった。100本だか1000本だかわからないが、実力試しのノックのような仕事がやってきた。

それに夢中になって取り組んでいて、しかも、自転車のトレーニングを欠かさなかった。すると、8月の終わり、もう少しでワクチン接種というときに体調の谷間が来て休むことになった。

去年ぐらいから、アトピー性皮膚炎があって慢性化した。一時、乳酸菌を飲むことによって治っていたものが、復活した。薬をもらったが、塗っても塗っても直らず放っておいた。

すると、そのスタミナ切れの際にアレルギーが一気に開花した。顔がぱあっと赤くなり、最初は暑いせいかと思っていたら、実は麦がダメだった。小麦アレルギーを発症した。

麦茶を飲むとどんどん赤くなり、緊急対応用のステロイドを飲んだ。そんな中ワクチンを受けに行って発熱。微熱だったが体力は奪い、アレルギーは悪化。醤油に入っている小麦も受け付けず、小麦フリーの醤油を慌てて購入した。

医師にも、薬剤師にも「疲れてるんですね。」と言われた。元々小麦アレルギーは持っていたのだが、疲れている時のみ注意と言われたのはもう十数年前か。

ネットで見てみるとアナフィラキシーも起こす可能性ありと出ていたので、ここ1ヶ月は小麦フリーの生活を送っている。すると、慢性化していた皮膚炎は綺麗に治り、消毒薬で荒れていると思っていた手もすっかり綺麗になった。

アレルギーはまるでレジスタンスのように身体に潜んでいて、私の体内で地下活動をしながら息を潜めていた。パスタフリー、パンフリーの味気ない生活はいつまで続くのだろう。せっかくオーブンを新しくして、パンを焼けるようにしたのに。米粉でお菓子でも焼こうかな。体内での小麦アレルギー革命だけはごめん被る。


2021年9月28日火曜日

ミニマリストにはなれないけれど(シンプルという革命)

 ミニマリストというのがちょっと前に流行った。いや、まだ渦中に身をおいている人もいるのかもしれない。

断捨離も時を同じくして流行っていた。結局目的としては、不要なものは買わない、捨てるということ。それで人間関係が良くなるとかならないとか。

最小限の生活、それはそれでスッキリしていいかもしれない。日常で使うものなんて知れているから。ただ、普通に暮らしているのだったら、必要なものは必要なものとしてとっておいて、清潔に整理整頓されていればいいんじゃないかというのが私の持論。

なんでそんなことを言っているかというと、捨ててしまって結構後悔したものがあったから。片付いているのはいいのだけれど、古本屋で書い直した本もあったし、人にあげてしまって新しいものを買い直したものもあった。

それに、私は昭和の人なのでそもそも買ったものを大事に使う。ユニクロのジーンズなんか擦り切れるまで履いているし、20代の頃に買ったLeeのジーンズも裂けるまで履いていた。

今使っている無印のベッドなんか20年も使っている。アフタヌーンティーで買ったコップなんか、もう30年くらい使っている。物持ちがいいんですね。

そもそもシンプルなものが好きだったので、味もそっけもないものが好きなのかも知れないけれど、ミニマリズムというのは私に取ってはシンプルに「片付け」だった。

シンプルという革命は、静かに日本を覆い、やがてみんな静けさという心の平穏を得たのかも知れない。


2021年9月27日月曜日

Cyc, Yog, and Meditation

 サイクリングとヨガと瞑想、これをルーティンにしようというのが目下体力作り革命を進行中の私の日課だ。日課といえば、仕事と日記もあるが、まぁこの3つが強化週間だ。

夏に仕事を始めて緊張が酷かったのと、パソコンスタンドを使っていなかったのでひどく背中が痛むのと、とにかく暑くて外でサイクリングできなかったのと、さらにワクチンを打って弱ったという何重もの障壁があり、9月初旬というのはだいぶ疲れていて、やっと先週ワークアウトを再開したところ。再習慣化するのはまた手がかかる。

以前、ヨガを昔からやっている男性のブログを読んでいたら、ヨガの前に走ってからヨガをして瞑想するという順番だったと思うけど、ヨガの前に有酸素運動をしてヨガをするというのが昔は正式だったらしい。

確かにヨガの前に走るとヨガをやったときの身体の温まり方が違い、当然、汗のかきかたも違う。すると最後の瞑想になんとも静かな時を過ごせる。

ところで、アメリカはドラえもんを出版したり、映画化しないというのは周知の事実だが、これはのび太が情けなさすぎるからだ。しかし、人間というのは常に不安や恐れを持っているものなので、常に勇敢でいなければならない西洋的な発想というのは実に人間に厳しい。

ところが東洋人はネガティブな自分も受け入れている。弱い自分というものを受け入れてくれるドラえもんという存在、ひいては、子供の不安や軟弱さというのに寄り添ってくれる人というのが日本にはいるわけだ。

そして、禅、瞑想という東洋の一種の週間はその弱い自分を律する方法というわけだ。東洋の方がちょっと抽象的なアプローチだけど、人間そのものの存在のあり方が自然だ。

ドラえもんが生き残っている訳がわかる。ウルトラマンやその他のヒーローものがほとんどなくなってしまったというのに、ドラえもんは何十年も残っている訳だから。

実は情けない存在であるということをさっさと認めてしまった東洋人は、実はしなやかに生きているのかも知れない。

そんなことを考えながら、今日も静寂の時を迎えるべくそのベースとなるサイクリングを始める。何かに打ち勝つのではなく、ネガティブさをうまくコントロールできるようになるだろうか。静寂さへの道は続く。

2021年9月26日日曜日

ハンドメイドのマーケット 密やかな革命

 2013年にアメリカに行ったときに、ハンドメイドの需要の多さにちょっとびっくりした。

私は当時片道2時間の通勤でヘトヘトで、しかもデスクワークで身体が参っていた。その当時は、瞑想やらヨガでやっと仕事の疲れを癒していて、てっきりアメリカ人も忙しい中、静寂を求めるヨガが流行っていると思っていた。ニューヨーカーのヨガの話は結構聞いていたから。

だから、高校時代に知り合ったアメリカ人宅に行って、フェルティングや編み物、刺繍、なんてことが彼女たちのホビーだと聞いて、おや?と思った。

そんな素朴な趣味なんだ。それって70年代の日本では?と思ったのだ。アメリカって私たちより進んでいるはずだよね?と。

当時、私がヨガとハンドメイドソープにハマっていることはFacebookで先方に周知していたため、ハンドメイドソープの材料専門店に連れて行ってもらって、安いシアバターをたくさん仕入れたり、ワシントン(D.Cではない方)にあるヨガの街に連れて行ってもらったりした。しかしそこでヨガをやるよりは、20数年ぶりに出会った友人と川のほとりで話し合うことに重きをおいた。

それから8年後の現在、自粛で編み物を自分で初めてみて、あれっと思って昔マーケッターだったことも手伝ってちょっと調べてみたところ、令和の日本では実はハンドメイドが密やかに流行っている。

昔のように大量生産・大量消費の大きな波がある一方で、大きな流行りというのが世の中にはなくなりつつある、というのが現実だ。世の中にものが溢れ、ユニクロや無印で安く色々なものが買える状況がある一方で、ファストファッションはみんなと同じものなので、自分というユニークな存在を主張するために、ハンドメイドで自分を主張するという潮流ができていたのだ。

ネットにはハンドメイド作品を販売するマーケットがあり、そこではハンドメイドのセーターはもちろん、あらゆるものが販売されている。そこには世界で一つしかない、手作りのものが販売されており、編み物ももはや主婦の趣味ではなく、「本業」あるいは「副業」なのだ。

要は既製品が世に溢れ、消費されてしまったというのが端的な解釈だ。だから私たちは、みな自分の時間ができたなら、自分なりの製品を作るということだ。やっぱりアメリカが先を行っていたのだなと思う。

ちなみに、行きつけの手芸店で編み棒を買うときに、「どう、儲かってる?最近自粛で手芸が流行ってるらしいじゃないですか?」と声をかけてみると、「それがね、最近のお母さんは子供に編み物を教えられないんですよ。」とのこと。まだ彼女らは、密やかな革命を知らないのだろう。密やかな革命は実は各家庭で進行中なのだ。